ESSAY|エッセイ

父・河崎利明 遺稿集

外神田五軒町

父・河崎利明 遺稿集「はとからすやまとりのこみ」より

私の母方の祖母の生家は外神田五軒町の会席茶屋福田家で、祖母は万延年間、祖父は天保年間に小石川伝通院前で生まれたから二人共或程度江戸時代の空気を吸った夫婦である。後年祖父は尾上松之助のチャンバラ映画を見て「活動ではすぐ刀を抜いて切りあうが、自分は江戸に住んでいてとうとう侍が刀を抜いて争うのは見たことがなかった」と話した。

 

会席茶屋の福田家は江戸時代から大正末期まで続いた。よく大伯母が店にチンチョウさん(穂積陳重東大教授)始め箕作佳吉、重野安繹、外山正一などの大学者、依田学海、饗庭篁村などの文人が客として来ていた話をした。近くのお玉ヶ池の千葉周作も客だったらしい。大正期には新国劇の沢田正二郎が出入りし、よく舞台稽古に使っていた。

 

福田家に伝えられたいろいろの話が残っている。福田家は五軒町に家作の長屋を持っていた。その一軒に河内山宗俊の妾がいた。宗俊は城から下ると毎晩のようにその妾のところに来ていた。妾は若くて小柄だが、ひどく伝法な女だった。宗俊は青々と剃った頭、濃い髭あと、凄味のある顔立だった。湯帷子は「大小髑髏くづし」の柄がお気に入りで、帯は博多の一本独鈷、よく縁台で涼んでいたそうだ。米屋がよく変った。つまらないところにけちをつけ米をまきあげたからだ。

 

河内山は死罪になり、妾はどこかに行ってしまった。それから三十年後、同じその長屋に上州から来た夫婦者が入った。亭主は病気もちで神奈川の施療院のヘボン先生のところまで通っていた。そしてそれから何年後、そのかみさんが方が亭主や他の男たちを殺し、明治九年につかまって死刑になった、所謂毒婦「高橋お伝」で、連日新聞はその記事でもちきりになり、長屋を大さわぎだったそうだ。

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父・河崎利明 遺稿集「はとからすやまとりのこみ」

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