山中さん

父・河崎利明 遺稿集「はとからすやまとりのこみ」より

父・河崎利明 遺稿集

Essay|エッセイ

戦争末期のことである。父の所有していた空き家の製絲工場に留守番の山中という七十歳ぐらいのぢいさんが、工場づとめの息子夫婦と住んでいた。

山中さんは小遣銭が欲しいのと、私の家で働いていた若い連中が一人のこらず兵隊にとられたのと両方の事情から昼間家に働きに来た。働くといっても格別の用もない。しかし、時には晩飯を食べて帰ることもあった。

 

ある夕方、山中さんが急にもぞもぞ始めた。母が「どうしたの」と訊くと、山中さんは「今朝起きた時シャツに片袖通すのを忘れていやした」と答えた。

父が山中さんを供につれて町に出た時、向こうから三十歳ぐらいの女性が来て、立ち止り深々と礼をした。山中さんは「はい、こんにちや」と大声を出した。父も軽く頭をさげ、行き違ってから「どこのお人かな」山中さんは一呼吸してから「ありゃ、私んちの嫁でがした」といった。

 

店をやめて代官町に越して来た晩秋の夜、母が縫物をし山中さんは煙管でたばこを喫っていた。とつぜんさらさらと雨音がする。母はお十夜で菩提寺の正定寺に行っている父に傘をもって行く様山中さんに頼んだ。併し、それは雨音ではなく、風で落葉が一せいに散る音だった。山中さんは本堂の前で「旦那、傘を持って来やした」と大声で呼ばはる。父が驚いて本堂の縁まで出ると?々たる月光の中、傘をかついだ山中さんが居た。

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父・河崎利明 遺稿集「はとからすやまとりのこみ」

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